会社概要
会社名
有限会社 斉藤電設
代表者
齊藤 潤一郎
住所
長野県安曇野市三郷小倉2055
電話番号
0263-77-7777
FAX番号
0263-77-7778
営業時間
8:00〜17:30(土日祝・年末年始・お盆除く)
事業内容
電気設備工事、空調設備工事、情報通信設備工事、
防犯カメラ工事、太陽光発電設備工事、蓄電設備工事、計装工事
事業エリア
主に中信地域 長野県内、関東方面
創業年
1962年12月
資本金
300万円
許可登録
電気工事業 長野県知事許可(般-29)第24407号
電気通信工事業 長野県知事許可(般-29)第24407号
会社沿革
1987年(昭和62年)12月
会社設立 松本市新村 資本金100万円
1992年(平成4年)2月
松本市宮渕に移転
2006年(平成18年)5月
資本金300万円に増資
2010年(平成22年)2月
安曇野市三郷に移転
経営理念
「線(縁)をつなぐ、心をつなぐ、幸せの輪をつなぐ」
私たちはライフラインの一端を担っているという責任と誇りを自覚し、確かな技術をもって安全・安心な設備を提供すると共に、人と自然に思いやりの心を持って、全ての人が心豊かに暮らせる環境を整えていきます
「線をつなぐ」
電気や情報をつなぐ電線に限らず、人と人とをつなげる目に見えない線「縁」を大切にして、良いご縁を絶やさずにつなぎ続けていく。
「心をつなぐ」
お客様の声に耳を傾け、寄り添い心を通わせることで、お客様の立場を理解し、お客様自身が気づいていないニーズやウォンツを見つけて、より安心で快適な設備を提供することにつなげ、お客様の満足感を感動へと高めていく。
「幸せの輪をつなぐ」
私たちが提供する技術やサービスを通して、お客様が不満や不安から解放され心豊かに過ごせることでお客様を幸せにつなげていく。そしてお客様に喜んでいただけることを働き甲斐、生き甲斐とし、私たち自らも幸せになると共に私たちの家族や、取引先様、協力業者様から地域、社会全体に幸せの連鎖をつなげていく。
会社地図
創業の想い
斉藤電設は1987年(昭和62年)12月21日に設立された。創業者は齊藤潤一郎、創業時24歳であった。
潤一郎の父、齊藤美邦は昭和41年より(有)デンオン電化を起業、経営していた 。潤一郎は、家業を継ぐべく工業高校へ進学し、卒業後は、ダイシン機電(株)で3年間働いた後にデンオン電化に入社。その後、昭和61年には弟の洋二郎が 入社した。
昭和62年、土地や手形のトラブルからデンオン電化は自己破産することになっ た。自己破産当時、潤一郎24歳、洋二郎21歳、健三郎18歳(高校3年生)、敬 四郎13歳(中学1年生)であった。幸いにして工具や車両は差し押さえられなかったこともあり、父親の事業を引き継ぐ形で(有)斉藤電設を創業した。
創業後も父親の築いた人間関係でご縁のあるお客様から仕事をいただけたことが嬉しかった。同情からでは無く、仕事ぶりを評価していただけるお客様もいたので、自分の仕事がお客様の期待に応えられるよう更に努力し続けた。
同業他社に対して感じていたコンプレックスをバネにして、「負けてたまるか」、「なにくそ根性」を持って我武者羅に働くことを信条としていたが、それだけでは駄目だとも感じていたため、お客様から頼まれたことは何でも引き受けた。他の人に出来て自分に出来ない訳はないと信じて、初めての仕事にも挑戦していった。昼夜、休日問わず仕事を続けていたので「夜鷹電設」と言われるようになっていた。
そんなある日、停電して困っているお客様の家に呼ばれた。急いで点検調査して漏電箇所を発見して電気が使えるようになった時、照明が灯った時のお客様のホッとした表情と笑顔と感謝の言葉を貰った時に、この仕事で人の役に立てる喜びを感じた。自分達の儲けのことしか考えていなかった仕事が、世の為、人の為に役立つ会社にしたいと思った出来事であった。そして、いつの間に か自分の技術に自信を持ち、仕事にも誇りを持つようになり、電気工事士としての使命を自覚し、仕事が天職になっていた。
その一方で、電気工事業の現場での地位の低さに不満と疑問を持っていた。 電気工事士と言う立派な国家資格を持った技術屋が、現場に入ると他の職人たちから嫌がらせを受けたり、無理な工程の中で仕事をさせられていたからである。自分の天職である電気工事を、もっと世間の人に知ってもらいたい。若い人たちに魅力を感じてもらえる業界にしたいとの想いも強くなっていった。
潤一郎の父、齊藤美邦は昭和41年より(有)デンオン電化を起業、経営していた 。潤一郎は、家業を継ぐべく工業高校へ進学し、卒業後は、ダイシン機電(株)で3年間働いた後にデンオン電化に入社。その後、昭和61年には弟の洋二郎が 入社した。
昭和62年、土地や手形のトラブルからデンオン電化は自己破産することになっ た。自己破産当時、潤一郎24歳、洋二郎21歳、健三郎18歳(高校3年生)、敬 四郎13歳(中学1年生)であった。幸いにして工具や車両は差し押さえられなかったこともあり、父親の事業を引き継ぐ形で(有)斉藤電設を創業した。
創業後も父親の築いた人間関係でご縁のあるお客様から仕事をいただけたことが嬉しかった。同情からでは無く、仕事ぶりを評価していただけるお客様もいたので、自分の仕事がお客様の期待に応えられるよう更に努力し続けた。
同業他社に対して感じていたコンプレックスをバネにして、「負けてたまるか」、「なにくそ根性」を持って我武者羅に働くことを信条としていたが、それだけでは駄目だとも感じていたため、お客様から頼まれたことは何でも引き受けた。他の人に出来て自分に出来ない訳はないと信じて、初めての仕事にも挑戦していった。昼夜、休日問わず仕事を続けていたので「夜鷹電設」と言われるようになっていた。
そんなある日、停電して困っているお客様の家に呼ばれた。急いで点検調査して漏電箇所を発見して電気が使えるようになった時、照明が灯った時のお客様のホッとした表情と笑顔と感謝の言葉を貰った時に、この仕事で人の役に立てる喜びを感じた。自分達の儲けのことしか考えていなかった仕事が、世の為、人の為に役立つ会社にしたいと思った出来事であった。そして、いつの間に か自分の技術に自信を持ち、仕事にも誇りを持つようになり、電気工事士としての使命を自覚し、仕事が天職になっていた。
その一方で、電気工事業の現場での地位の低さに不満と疑問を持っていた。 電気工事士と言う立派な国家資格を持った技術屋が、現場に入ると他の職人たちから嫌がらせを受けたり、無理な工程の中で仕事をさせられていたからである。自分の天職である電気工事を、もっと世間の人に知ってもらいたい。若い人たちに魅力を感じてもらえる業界にしたいとの想いも強くなっていった。